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国旗・国家

学校の祝典で国旗の掲揚をしないとか「きみがよ」 
を歌わないとかが問題になったことがあります。 
私は当時小学校5年生で週に1度中学校の教師をされている方が 
家庭教師としていらしていました。 
とても穏やかな方でした。 ある時、その先生が 
 
『「きみがよ」は天皇を称える歌で戦前ならいざ知らず、 
今国歌として認められるべき歌ではないんだ。 
皆意味も解らず、歌っているのは良くない事だ。』 
 
と言うようなことを言われました。私にしては今まで考えもしなかった事柄ですし、 
その時言われた歌詞の意味も子供心に「へー!」としか言いようもなく、 
ひたすら先生は頭がいいんだと感心しきった記憶が有ります。 
そして早速に食事の時に1つ賢くなったつもりで両親に「きみがよ」論を述べました。 
今のように政党が沢山な頃ではありませんから「先生は共産党ですか」 
と言う事で当時他の政党を支持していた両親は家庭教師をお断りしました。 
でも、その出来事は私の普段の生活とは違った事柄でしたし、 
未だに深く頭に残っています。 
この場合、親が選び、我が家とは考えが違うからと断ると事ができました。 
善悪のはっきりしていない時期に家庭の方針とことなる 
偏った思想は時として危険ですから。 
 
しかし、公立の小学校・中学校・高校へ子供が通う場合、 
親の方から選べるわけもなく、せいぜい先生の御名前と教科が何かが分かる程度。 
先生方の移動も親の 知らない所で行われ、子供の担任がどういう先生なのか? 
どういう考えの先生なのか?も解らないままに1年ないし2年子供の成長を託すのです。 
 
先生も人間だから色々な考え方のあって当然だと思います。 
しかし、だからと言って自分の考えを・考え方を・信念を 
未成年者にストレートに話して良いものでしょうか? 
自分が信じて行動されるのはある面自由だと思います。 
しかし、前で私が述べたように初めて触れる事柄・無形の思想のようなものは 
それ自体を新鮮なものに感じさせたり、 
知識人的な発想をしているような錯覚に陥らせる危険があると思います。 

大人が自分の考えを正当化させようとした時、 
例えば少年達が武器を手に戦っている姿、 
洗脳に近い状態には利己的な独裁者が言葉巧みに若者を 
操るなんてことはやってやれない事ではない・・・恐ろしさがあります。 
もし、例え国境がなくなっても日本人は何処へ行っても日本人に変わりなく、 
日本の中で東京と大阪が比較されるような違いがあるのを拡大するくらい。 
いくら自分が世界人と自称しようが外国人から見れば日本人固有のものがあると思います。 
 
日本人としての自信・自覚と言うより、 
人間として自分を成長させ自信の持てる人となる・・ 
それが価値観の違いから日本人同士の中でいくら違おうが、 
それを外人から見た場合、日本人のと言う単語に収まるだけだと思います。 
国が存在し、税金を納め、国の形成に参加している限り 
日本の国民である事実は紛れもなく、国民全体の意思表示が黙祷と言う表現しか出来ない 
としたら何か寂しいものを感じませんか。 
回りくどい言方かもしれないけれど公立の先生方は税金の中から給料が支払われ、 
支払われているから黙って教えてればいいと言うのでないのだけれど、 
支払っている側の立場からすれば意図しない事をお金を払って吹き込まれている。 
 

此方には先生を選ぶ選択権すらないという現状も考えていただきたい 
「きみがよ」がだめなら国歌をかえる。日の丸反対なら国旗をかえる。 
しかし今、そんな重大な決断を日本人は出来るのでしょうか。 
 
 
 

中学の音楽

今、中学でも5教科以外の副教科も重要視されるようになり、 
当然その中に音楽も入ってきます。 
重要視と単純にいうのは間違っているかもしれません。 
高校受験におけるウエイトが高くなったと言った方が正しいかもしれません。 
音楽は では一体何で点数を決められているのでしょうか。 
5教科においては知識と割り切って、いかに覚えたか?理解出来たか? 
が試験で試され、後は提出物の如何で点数は如実に表されるでしょう。 
 
それは理系に進みたい。文系に進みたい。 
まだどちらとも解らない人間にとって底辺的な常識部分が多いから。 
しかし音楽の試験に関して言えば、音楽大学を出た人でも前日に 
本を借りて丸暗記しなければいけないような、その本だから載っている問題が 
試験の為の問題としか受け取れないようなのも有ります。 
又 A先生の問題は毎年同じとかB先生の問題は市販されている問題を使われているとか… 
1部の先生のされている事にしても、それを受けている生徒はいるのです。 
音楽の試験には、リコーダー・歌の試験等も有ります。 
リコーダーに関して言えば、得手不得手は有っても 
その子の努力でまかなえる事だと思います。 
しかし、歌はどうでしょう。 
メロディーは授業で教えても声がいかにすれば出せるのか 
授業中に指導はなされているのでしょうか?声変わりの子もいます。 
単に恥ずかしくて出せない子もいます。 
がんばっても この音域の歌は歌えないという子もいます。 
試験にあたって、そういう事を解られて先生は試験をされているのでしょうか? 
 
学校によっては300人前後の生徒を担当されているかもしれません。 
だからと言って、それは無理という事は言ってはいけない事です。 
なぜなら、生徒はそれで点数を付けられ、 
中には「私は音楽苦手」と思い込んでしまう子もいるからです。  
 
学校の音楽に何故点数がいるのでしょう。 
中学の音楽の先生にその生徒の高校受験に影響力のある点数を 
一任してしまっても良いのでしょうか。 
 
音楽は生活を豊かにする物です。個人的にピアノ・歌・ヴァイオリン・フルート等 
習っていて音楽の道に進みたいと思っている人、 
ブラスバンド部に入って楽器を本格的に勉強したくなる人、 
そういう人たちもいるけれど、5教科のように将来専門に勉強する道がある 
と言うだけでなく、これからもずーっと先人生を豊かにする物としてあるのです。 
音楽など副教科を重視すると言う意味が取りちがえられているとは思いませんか? 

教師は聖職

これは教わる側からの意識ではなく、 
教師側が必ず持たなければならない意識だと思っています。 

親が自分の子供の事でも考え悩んでも正解を見つけられない問題は沢山有ります。 
でも、そういう困難なことがあることを解った上で教師という職業を選んでいるはずです。 
上手くいかないことがあっても諦めず教育方法を模索していってもらいたいと思います。 
 
多くの先生方はこういう意識を持って生徒に接し、 
一生懸命に取り組んで下さっていると思います。 
でも持っていただく先生によって子供がガラッと変わってしまうのも事実。 
 
私は年の始めに必ず書いて、気持ちを・意識をしっかり持とうと 
自分に言い聞かす言葉が有ります。 
 
 ・ 私に何人生徒がいようとも生徒から見れば先生は私1人なのだ。 
 ・ 生徒の人生の何時間かに関わっている・関われている重要性を忘れてはならない。 
 ・ 生徒が私の所から巣立った後も良い影響力のある人間でなくてはならない。 
 
ピアノのレッスンをしていると生徒は色々な事を話し掛けてくれます。 
時には 「ハイ!レッスン中!」と言わなければならない事も有ります。  
親に話す前になんとなく相談というのも有りますし、 
1週間に1度しか会わないからかえって生徒の変化が解るということもあるのでしょう。 

 生徒の感情の変化は相談からだけでなく、「音色」「弾き方」「態度」でも現れます。 
 そんな時、私はどういう風に接するのがこの子にとってより良いのかを考えます。 
2~3週間良くない状況が続いていると思う時は御家庭にお電話をして 
何とはなしに「どうですか?」と聞くようにしています。 
 大概それから1~2週間すると学校から友達関係の事で連絡があったり・・・ 
 
そういった変化に気付くことが教師や周りにいる大人の役割の一つだと思います。 
生徒のS.O.S.をより早くキャッチする立場にいる事に身の引き締まる思いがします。  
 
 
 

ゆとり教育

本当のゆとり教育とは子供が成長過程において 
時間にゆとりがあるのではなく、 
将来、頭脳に・心に人間としてゆとりを持てる 
ようになることではないでしょうか。 
 
確かに遺伝的なものがあるかもしれないけれど、 
それ以上に子供は取り巻く大人や環境によってどうにでも育っていくと思います。 
例えば、整理整頓の出来ない大人に育てられれば、 
片付いていない状況が普通で「片付ける」という 
行動を改めて学ばなければならない。 
整理整頓が当たり前で育った子供は、 
片付いている状態が普通だから改めて片付ける事を 
学ぶ必要も行動も最小限ですむことになります。 
私は片付けなさいと言っているし、 
整理整頓もするけれど子供はしないという方がいらっしゃるかもしれません。 
それは残念ながら整理整頓は当たり前であることを 
示していても子供に自身ですべきことという認識を持たせる事を怠り、 
自分で片付けたほうが手っ取り早いから「片付けなさい!」 
と叱りながらも手を出して子供より先に片付けているのではないでしょうか? 
どうすれば片付くのか?どの状態を片付いたと言うのか? 
その手間を省いているのではないでしょうか。 
現状片付いていれば良いのでなく、 
将来子供にとってどうあれば良いかを考えて育てるのが教育でしょう。 
 
幼年期から塾に通う方たちがいます。頭脳に早く色々な知識を詰め込む。 
知識を詰め込む自体は脳を刺激しているから良いとは思うのですが、 
暗記させることや反射神経的に出来ることを訓練するよりも、 
物事の考え方・取り組み方・ 何故そうなるのか 
もう一つ掘り下げて考えることの方が大事なのではないでしょうか? 
そういった方向で教育することで結果的に 
ゆとりを持てる人間に育てることができるのだと思います。 
 
例えばピアノの練習をする場合毎日15分すれば 
今週はとてもがんばって練習した、できるようになったと満足する生徒もいれば、 
今週は毎日30分しか練習できなかったと思う生徒もいます。 
練習内容も単にピアノの前に座り楽譜を見ているようで 
なんとなく弾いている生徒もいれば、 
レッスンで受けた注意を直そうとする生徒、 
直すためにはどんな練習をしたら良いかを考える生徒と色々です。 
でも、それぞれはそれぞれに練習をしたつもりでいます。 
練習時間は必要十分であれば問題ありません。 
 
なんとなく練習をしている生徒は、 
どれだけ練習してきて注意が直ってこないのですからなかなか曲が進みません。 
そして「やっても 上手にならない」と思うのです。 
当然、練習の仕方を指導したりしますが、 
漫然と弾いてくる生徒は中々上っ面の練習から抜けだせません。 
気長に生徒が目覚めてくれるようその時その時に応じて 
生徒に話をしていくのみです。 
真に気づいた時 グーッと伸びます。 
勉強もその時その時漫然と勉強時間を過ごさせるのでなく、 
取り組み方を指導する。 
自己満足のために練習をしていることを理解しているなら・・まあ良いでしょう。 
しかし、上達するためとなるとそうではいけません。 
漫然と練習していても効果は薄いのです。 
 
このことが分かっている教育者が少ないように思います。 
口が達者な子供もちょっと知識の多い子供も大人の目から見れば真っ白です。 
その子供が教育者・身近な大人の持っている 
間違った常識・練習方法に影響されると恐ろしいですね。 
自分の子供は自分たちで責任を持って生きさせていくだけでなく 
真に育てていくのを考えるべきだと思います。 
 
つまり、学校でのゆとり教育が言われますが、 
それぞれの家庭の方針が重要になってくるのだと思います。 
何を大切とするかがまずそれぞれの家庭で異なります。 
極端な話、学校の成績が良ければ最上の子供と考える方もおられます。 
私はそうと思いませんが・・・ 
 
勉強は自分を創るための食事と同じだと思います。 
口から入る食べ物は体を作り、学ぶことにより人間自体を創る。 
小学校の高学年や中学生になると 
「こんな勉強(科目) 私には必要ないのに」と言う子供がいます。 
そんな時、私はこういう風に答えます。 
「何をしたくなるか将来のことは未知でしょう。 
専門的なことでなく一般常識的なことが多いし、 
数学なんかも構成力を養う練習よ。 
自分の親・友人だけが今の 全てだろうけれど、 
色々な考えを持った人が多くいて、 
今のあなたなら「うそー」の言葉しか出てこないことも沢山あるはずよ。 
今は社会に出て社会で生活して いけるように準備をしてるんだよ」 
と言います。知識の引き出しを多く持ちなさいと私はよく言います。 
 
選択しなければならないとき A君は10センチの立方体の容量の知識しかなく、 
B君は100センチの立方体の容量の知識を持っている場合、 
A君にはB君の 選択が理解できないか、その選択に感銘を受けるでしょう。 
A君が1時間かかることをBの人は5分で出来るかもしれません。 
しかも1時間かけたA君よりも完 成度が高いこともあるかもしれません。 
また、例えば災害が起きた時に「可哀想」と思うだけの子もいれば、 
「もし自分の住んでいるところで起こったらどういう行動をすべきだろう」 
と考える子もいます。 
こういったことは日頃の習慣・経験に起因します。 
 
だから子供が知識・経験を増やすのは偉いのではなく、 
自分の人生を豊かに出来る可能性を増やせる状況を与えているんだよと教えるべきです。 
中々「そうかあ。感謝感謝。」と納得するお子さんはいらっしゃいませんが^^; 
 
子供のプラス面もマイナス面も育てている大人が本当は一番見えているはずです。 
子供に対し「もう!」と思うことが例えばあるなら、 
「もう!」と大人が思うことをどうすれば子供は治せるのだろうか 
を考えられるのも、一番身近にいる大人。 
そして、その子供に一番近いのが家庭。。その次に教師です。 
私は2番目に近い位置にいる責任ある大人として考えていかなければなりません。 
ゆとりのある多くの人たちが育ってこそ豊かな日本の将来があるのですから。 
 
 
 

私の子育て3

お母さまで 
「言ってるんですけどしないんです。」 
のようなことを言われる方がいます。 
私は言うことは言っている、親としてとるべき態度はとっている。 
と無意識に自分を正当化されている。 
 
子育ては自分に与えられた課題だと思います。 
自分の子が「しなさい!」「したの?」でするか?しないか? 
は日々の生活の早い段階で分かると思います。 
なら、親の義務としての声がけをするのはやめたほうが良いのでは? 
と思います。 
言って言うことをきかない→ 
イライラしてきつい口調で話す→ 
子供が泣く 
 
体は疲れるし、とことん言わないと収拾がつかなくなり、叱る時間が延びる。 
子供が本当に反省するのはマレ?ではないでしょうか。 
お母さんが怒っている間何もできない。 
泣いたら余計に子供も疲れる。 
 
何もいいことがありません。 
お母さんが自分の子に何かをさせたい場合、 
どうすれば自分の子供は行動するかを考える。 
 
お母さんの枠にはめ過ぎようとしていないか? 
子どもにとって良いと思って動いているか? 
親として「子供にこんなにしています」の自己満足が先に立っていないか? 
 

枠にはめ過ぎると、いざ自立をしてほしい時に 
自分から行動を起こすことをしなくなります。 
お母さんがリラックスできて、穏やかな気分でいられることが 
子どもにとってベストだと思います。 
 
しなければならない→ 
負担を感じるようになる→ 
誰のためにしてると思っているの!と罵声が飛ぶ 
 
互いにどうしたい、どうしよう、お母さんが主導権をとるのでなく、 
協力できる範囲を示してみる。 
怒ってる時間と体力がとっても無駄なものじゃないかなと思います。 
 
生徒達が「先生聞いて!うちのお母さんすぐ怒るよ」と言ったとき 
「お母さんと一緒に生活してて、何したらお母さん怒るか分かるやん。 
あなたが大切や思って注意してること聞かへんかったら 
「モー!」って思うんちゃうん? 
今週はお母さん怒らせへん!に挑戦してみ」 
 
私に訴えてきた生徒の誰からも「実行できた」 
の報告はまだもらえてないけれど・・・