レベル

私は生徒たちにレベルを上げようと声掛けをします。 
人にはそれぞれ満足するラインがあります。 
がんばらなくても普段初見練習をしているのですから練習時間が 
少なくてもほどほどには弾けます。 
でも、弾くと演奏は違います。 
どの程度練習しているかは聞けば解ります。 
演奏は練習しなければ出来ません。かつ、考えて練習しなければ。 
ただピアノの前に座って時間が過ぎるのを待つような練習では意味がありません。 
 

生徒たちが上達するには上手になりたいという 
内面の気持ちを持たせ高めること、 
課題を高く持ってもついてこられる意識を持つこと。 
出来ていない間は「それではまだ曲になっていない。」の意味すら理解できないのです。 
「弾けてるのに」の目をもっと弾けるようになりたいの輝く目に変える。変わる。 
と生徒もレッスンがもっと面白くなる。 
 
小学高学年や中学生になると「学校の勉強したくない」と愚痴る生徒が出てきます。 
私は「色々な知識がないと自分が本当にしたいことが見えてこないんだよ。 
又、何かしたいと思ったとき、知っていて当たり前のことを知らなかったら 
分かるはずのことが時間をかけても理解できなくなるかもしれない。 
物事をするとき の選択権は相手にあるより自分にあるほうがいいじゃない。 
自分のレベルを上げるのは自分だよ。」と話をします。 
 
私には息子が3人います。 
これから先、幸せな人生を歩んでほしいと願っています。 
私は幸せと言うものは 自分だけで感じれるものではないと思っています。  
自分だけが幸せでいると言うことはありえないと考えます。 
自分の周りが幸せで自分も幸せ、だと考えます。 
だから 日本が幸せであってほしいと願っています。 
生徒たちも自分で幸せを手にしていくという自覚・意識を 
自分のレベルを上げるというピアノのレッスンが少しでもプラスになればと思っています。 
 
 
 

就学前

色々と環境・設備は変わりましたが、今も昔も子育ては大変だと思います。 
でも親にとって何よりも大切な事であり、何事にも変えることのできないもの。 
だからこそどんなに大変でも苦しい時でも育てていけるのだと思います。 
 

生命が母親の体内に宿り、生きていくすべての物を母親から与えられ 
母親の体内を通し て音を聞き、感じ育ちます。 
赤ちゃんとして体外に現れた時、うすーく うすーく 色付きかけているかも知れないけれど、 
まだ限りなく白でそこに少しずつ色を付けていくのは、母親であり、父親であり、 
場合 によってはおじいちゃん・おばあちゃん・お兄ちゃん・お姉ちゃんだと思います。 
 
子供を育てるのは、その子をどういう環境で育てるか?どういう方針で育てるか? 
だと思います。 
学校等での教育はその中のホンの1部でしかないと思います。 
知識は知識であり、心ではありません。 
こどもが誕生した時、ほとんどの親が「素直な」「優しい」「人を思いやれる」子に 
なってほしいと願ったでしょう。 
 
「優しい頭の良い子に育てたい」と思うなら、 
親が関わってやれる範囲のことだけに押さえるべきです。 
「関わってやれる」と言うのは何も送り迎えの出来ると言う意味ではありません。 
一緒に自分がするつもりで考えてみられたら何かをさせるにしても 
1つで十分だと言うことがお解り になると思います。 
 
子供の勉強が出来るか?あまり芳しくないか?は 
「集中力」「思考力」「理解力」「要約力 」「計算力」だと思います。 
 
色々なことをさせ、時間拘束の中連れ回られている子供に集中力を望むのは難しい話です。 
集中力をつけさせたいのなら、何か1つの事を一生懸命にするように導くべきでしょう。 
 
絵とは思えない絵に没頭している時、人形遊びに夢中になっている時、砂で山を作ったり 
トンネルを作ったりしている時・・等、親が子供にしてやれるのは没頭できる十分な時間を 
とってやる事だと思います。 
 
他にも、自分で考えるのはパズルのような問題だけで、実際の自分の行動は親が次々指図して 
自分が何をしたくてどう行動するのかを決めさせてもらえない子に思考力を望むのはかわいそうです。 
 
子供はこの世の中の扉を開け、順々にその子に応じた慣れ方をして、 
その「慣れる」過程 でその子なりの思考力は育っていきます。 
それに対して、恐らく20年以上もたくさん生きて、何らかの経験をしてしまっている大人 
が手っ取り早く段取りや答えを与えてしまうのはどんな物なのでしょうか? 
その子供の「思考力」はいつ育むのでしょうか? 
 
とても小さい間は すごく賢くても気が付いた時には・・・・ 
 
せわしなく時間に追われ 何事も大人の考えた出来上がった答えをあたかも知識であるが如く 
与えられている子供には 理解力や要約力を望むのはかわいそうです。 
物事があって経過がなくて答えが有る。 
いかにすぐに答えられるかで 一喜一憂する方がいます。それってそんなに凄い事ですか? 
単に要領を身に付けてしまっただけではないのでしょうか。 
 
1~100までを3歳や4歳で数えられて、凄いと喜ばれる大人がいます。 
小学校に入れ ば大概可能になる事です。 
2~3年早く出来ても人生の長さの中で はたいしたことではないと思います。 
 
確かに最低限の知識が無いと発想は生まれません。 
しかし、子供の思考力とは発想以前の もっと根冠の部分ではないでしょうか? 
そんな事で時間を使うくらいなら、積み木を重ねたりして遊ぶことで 
数自体の持っている違いを自然と感じれるようになる方がずっと意義の有る事だと思います。 
 
ボケッと空の雲の動きを見ていたり、土を見てるのか?花を見てるのか?アリを見ているのか? 
解らないけれど、傍から見たらぼーとしている時間に 
色んな事が身に付いていっているかもしれません。 
 
物事を学ばせたいと思ったら、本人が興味を持つように環境を持っていく事。 
自分で感じていかなければ身に付いていってはくれません。 
 
よく上の子は何をするにもゆっくりで要領が悪く、 
下の子はさっさとしてしまう・出来てしまうというのが有ります。 
上の子が接するのは親です。下の子は親と上の子の接するのを見て育ち、 
また上の子が下の 子の生活環境を作ります。 
どういう事かと言うと、大概の御家庭の場合、上の子がピアノを習う時、自分で練習する時 
しかピアノの音色は聞こえません。 
 
つまり、未開の地を開拓していくが如くです。 
でも下の子がピアノを始める時 既にピアノの音色に幾分馴染んでいます。 
更に大体の場合、自分の練習曲は上の子がした曲だったりしてなんとなく親しみよくなっています。 
だから上の子よりすっと出来ても凄いことでは ないのです。これが環境です。 
頭からさせなきゃと思うより そういう環境作りが大切だと思います。 
 
色々な知識が例え身に付いたとしても、 
それによって本人の喜びがなければ何の意味が有 るのでしょう? 
 
「いつもお母さんは怒っていた」・「お母さんにやらされていた」では、 
させている親もしている子も幸せではないと思います。 
子供は言われたことをしているだけ・・・ 
そんなことであなたが望む能力は伸びてくれないと思います。 
大人は子供のずっと先の将来の人間性を大切に考えなくてはいけないのではないでしょうか 
 
 
 

小学生

近頃、小学校に入るや否や学習塾に通う人が増えたように思います。 
人間を形成するのは 体・心・知恵です。 
体作りにしても年齢に応じた運動をしなければ、 
ほとんどの人が支障をきたしてしまいます。 
体づくりに関しては結果が目に見える状態で現れてきますので、 
気が付きやり方を見直せます。  
しかし・・・心と知恵は目に見えません。 
 
知恵とはいったい何なんでしょう?学校・塾で学ぶ事柄は「知識」です。 
世の中に出た時、それはその人の教養となります。 
当然、教養は必要です。でも、それと同時に「知恵」も必要なのです。 
生活の中で知恵をつけさせなくて、知識だけを詰め込んで・・・ 
果たしてそれをその子は使いこなせるのでしょうか? 
 
学校で習う事は学校で習ってしまえば良いのです。 
 
必ず100点に近い点でなくても、間違ったら間違ったままにしないで覚え直せば良い。 
テストの前に覚えるか?テストの後で確認できるか? 
の違いで覚えてしまえば大差はないと思います。  
それより解らなければ帰って塾の先生なり、家庭教師が教えてくれる・・・ 
と言う気持ちを子供が持ってしまったら、 
その子はそれ自体自分の時間を大切に使えない子になってしまっていると思いませんか? 
 
これは何度も自分で努力して覚えると言うのとは 又 違うと思います。 
頼る場所を増やしているに過ぎないのです。 
 
「うちの子供は出来ないから」とか「頭がよくない」とか決めて話す方がいます。 
その方はまだ単に自分の子供の秀でている所に 
気がついておられないだけではないでしょうか? 
 
テストで100点取ったって、クラスで1番だったって、 
幼子の屁理屈に聞こえるかも知れないけれど日本中では何番だ!  
100点は確かにその時点で理解出来ているのでしょうが、 
1カ月後にできなければ意味がないのです。 
 
何故、何でもかんでも解っていないといけないと思うのでしょう。 
極端な話、何か1つその子が生き生きと出来る事が有れば、 
それを周りの大人が大切にしてやることで、 
その子の未来はワクワクしてくるのではないでしょうか。 
 
何か1つと言うのは 
単純に好きな事と言うだけに終わらせない自分から考える何かのことです。 
物事に興味を持った時、始めは本質的な物。 
次第に側面的な物、つまり、それに関連する事に興味を持ち出す。 
そして、それをある程度気長に大人は見守ってやる姿勢が大切だと思います。 
 
選択権を持てる人間になってほしいと思います。 
人それぞれに幸せと感じれる事柄は違います。 
親の人生は親自身の物。子供の人生も又、子供自身の物。  
口出しする事はとても楽だと思います。結論を安易に教えているのだから。 
ただ 親の考え=最上では有り得ないと思います。 
親は自分が生きてきた範囲の中で善し悪しを考えてしまっているから。 
 
決して「口を出さない」=「放任」ではでは有りません。 
 
親は「私はいつもおまえを見守っている」と言う意識。 
子は「親に見守られている」と言う意識は絶対的に必要だと思います。 
 
子供時代は社会に出す訓練期間であり、予備練習の期間です。 
その子の人生にずっと関わるのはこの時期に養われた内面的な物だと思います。  
 
 
 

音楽は素敵

長く携われば携わるほどに、ピアノの教育としての価値の大きさを感じます。 
例えば楽譜を見る。楽譜には拍子があり、音符が書かれ、 
リズムがついて速度や表現の表示がしてあります。 
しかし、同じ楽譜からでも人それぞれに読み取り方は違います。 
楽譜をどういう風に読み取り、自分の弾いている音を 
どれだけ注意して聞くかで注意力は育ちます。 
自分の弾いている曲がどういう曲なのか・・ 
「楽しい」「悲しい」「軽やか」「静か」等を考えて、 
そう聞こえる音を出したいと思った時。。 
そういった前後関 係も考えての音作りは「思考力」「集中力」を養い、 
曲を1つの物語と考えその中に情景描写・感情描写を加えれば、 
感受性・国語力を養います。 
バロック系でのメロディーの追いかけっこは、左脳・右脳を使っての作業になり、 
系統立てて考える力は、数学的な面を伸ばします。 
というように生徒さんによっての個々の成長も取り組む姿勢も異なりますが、 
それぞれがプラスの方向で進んでくれるよう取り組んでいます。 
 
ピアノレッスン自体ですがレッスンでは、読譜・テンポ感・拍子感・音感・リズム、 
次にフレーズ・速度・時代的なもの・演奏法等の指導をします。 
それに並行してキータッチ・音の出し方・指の下ろし方・脱力・体の使い方等を指導します。 
 
指導する側からは ピアノのレッスンは前記したようなことを目的としていますので、 
曲を 楽譜を見て弾いた時、よりよい音色・曲にあった音で弾けるようになって欲しい。 
どう聞こえる曲に仕上げたいかを考えて弾いてもらいたいのです。 
だから、その変化を感じられない電子楽器よりアップライト。 
よりこまやかなキータッチ表現を感じるグランドピアノとなります。 
触れば・叩けば音楽になるとは決して思って欲しくないし、 
弾いた=音楽 とも思って欲しくない。 
 
生徒達に 言うのですが ピアノは指先だけで弾くのでなくて 
頭からピピピって指令が行って腕を通って手を通って、 
指先に到着するから途中で折れたり曲 がったりしたら 到着しないし、 
あなたも指も体全部が音楽を感じられるようにならないと、単に音を弾くことになるよ。 
あなたが弾いている曲を聞きたいの に 指だけが音を弾くのでは音楽にならないよ。 
小さい方達にも 徐々に思いを伝えていきます。(生徒への手紙7月より) 
 
音楽はその人の人間としての豊かさの1部であり、 
その人を形成する上での重要な役割をしていると思っています。 
だから 先月のお手紙で書きましたように 楽譜を弾かせればいいとは思っていません。 
何か 曲を弾くには それなりの努力は必要です。 
子供さんによって体格的なものが成長する時期が異なるのと 
同様に物に対する見方・注意力・集中力・持続力・構成力・感性等も個人差があります。 
伸びる時期・伸ばしやすい時期も異なります。 
でも常に 前向きに 身についていってもらえる姿勢で対応しなければと思っています。 
練習も 自分の生活リズムの管理ですから少しでも時間を作る努力を 
できるよう一緒に考えますし、ご父兄にも時間の割り振りに子供さんと 
お話していただくようにします。 
ピアノは 家庭での練習量が上達の条件です。 
 
 
 

子供に習得させたい事

子供が独り立ちした時にどうあって欲しいか? 
親子の人間関係・世の中に対する時の子供の姿勢 
物事を広く、浅く色んな事を知ってもらいたいと思われる方も多いかもしれません。 
確かに、浅い部分は比較的すぐに学ぶことができますから、 
広く浅くいろんなことを学ぶのは効率的にも思うでしょう。 
でも、お稽古事を広く浅くでは単なる「知識を少しかじっただけ」にしかなりません。 
お稽古事は、深く学ぶ事で精神・達成する方法も学ぶのだと思います。 
 
努力というのはできなかったことに挑戦し、身につける成長過程です。 
だから、どんなに能力のある人でも初めに3つも4つもに挑んでみるより、 
まず1つの事を深く長く挑み続けることで自分の内なる力が貯えられ、 
又また他の一見関連性の無いものに挑む際にも役に立つものだと思います。 
 
音楽も技術だけでは自分も楽しめないし、人の心にも触れる演奏はできません。 
 
では、どうすれば・・・ 
 
私はその過程が大切だと思います。 
初めは誰しも自己満足の演奏、そして他の人の演奏を聴いたり、 
レッスンによって、感受性が高まっていき、自分の演奏に取り入れる。 
そして、自分の演奏に取り入れることができてから 
同じ演奏を聴いていても感じ方が変わり、また・・・と繰り返し、 
感受性が高まっていきます。 
色々な物事に関しての感性も高まっていきます。 
でも、少し弾けるようになったかな?で止めてしまうと 
肝心の人間的成長が養えません。 
とてももったいない事です。 
 
知識を多くするのも大切かもしれないけれど、親と子が大人対大人として 
向き合った時どうあって欲しいのかを 深く考えていただきたい。 
 
 
 

国旗・国家

学校の祝典で国旗の掲揚をしないとか「きみがよ」 
を歌わないとかが問題になったことがあります。 
私は当時小学校5年生で週に1度中学校の教師をされている方が 
家庭教師としていらしていました。 
とても穏やかな方でした。 ある時、その先生が 
 
『「きみがよ」は天皇を称える歌で戦前ならいざ知らず、 
今国歌として認められるべき歌ではないんだ。 
皆意味も解らず、歌っているのは良くない事だ。』 
 
と言うようなことを言われました。私にしては今まで考えもしなかった事柄ですし、 
その時言われた歌詞の意味も子供心に「へー!」としか言いようもなく、 
ひたすら先生は頭がいいんだと感心しきった記憶が有ります。 
そして早速に食事の時に1つ賢くなったつもりで両親に「きみがよ」論を述べました。 
今のように政党が沢山な頃ではありませんから「先生は共産党ですか」 
と言う事で当時他の政党を支持していた両親は家庭教師をお断りしました。 
でも、その出来事は私の普段の生活とは違った事柄でしたし、 
未だに深く頭に残っています。 
この場合、親が選び、我が家とは考えが違うからと断ると事ができました。 
善悪のはっきりしていない時期に家庭の方針とことなる 
偏った思想は時として危険ですから。 
 
しかし、公立の小学校・中学校・高校へ子供が通う場合、 
親の方から選べるわけもなく、せいぜい先生の御名前と教科が何かが分かる程度。 
先生方の移動も親の 知らない所で行われ、子供の担任がどういう先生なのか? 
どういう考えの先生なのか?も解らないままに1年ないし2年子供の成長を託すのです。 
 
先生も人間だから色々な考え方のあって当然だと思います。 
しかし、だからと言って自分の考えを・考え方を・信念を 
未成年者にストレートに話して良いものでしょうか? 
自分が信じて行動されるのはある面自由だと思います。 
しかし、前で私が述べたように初めて触れる事柄・無形の思想のようなものは 
それ自体を新鮮なものに感じさせたり、 
知識人的な発想をしているような錯覚に陥らせる危険があると思います。 

大人が自分の考えを正当化させようとした時、 
例えば少年達が武器を手に戦っている姿、 
洗脳に近い状態には利己的な独裁者が言葉巧みに若者を 
操るなんてことはやってやれない事ではない・・・恐ろしさがあります。 
もし、例え国境がなくなっても日本人は何処へ行っても日本人に変わりなく、 
日本の中で東京と大阪が比較されるような違いがあるのを拡大するくらい。 
いくら自分が世界人と自称しようが外国人から見れば日本人固有のものがあると思います。 
 
日本人としての自信・自覚と言うより、 
人間として自分を成長させ自信の持てる人となる・・ 
それが価値観の違いから日本人同士の中でいくら違おうが、 
それを外人から見た場合、日本人のと言う単語に収まるだけだと思います。 
国が存在し、税金を納め、国の形成に参加している限り 
日本の国民である事実は紛れもなく、国民全体の意思表示が黙祷と言う表現しか出来ない 
としたら何か寂しいものを感じませんか。 
回りくどい言方かもしれないけれど公立の先生方は税金の中から給料が支払われ、 
支払われているから黙って教えてればいいと言うのでないのだけれど、 
支払っている側の立場からすれば意図しない事をお金を払って吹き込まれている。 
 

此方には先生を選ぶ選択権すらないという現状も考えていただきたい 
「きみがよ」がだめなら国歌をかえる。日の丸反対なら国旗をかえる。 
しかし今、そんな重大な決断を日本人は出来るのでしょうか。 
 
 
 

中学の音楽

今、中学でも5教科以外の副教科も重要視されるようになり、 
当然その中に音楽も入ってきます。 
重要視と単純にいうのは間違っているかもしれません。 
高校受験におけるウエイトが高くなったと言った方が正しいかもしれません。 
音楽は では一体何で点数を決められているのでしょうか。 
5教科においては知識と割り切って、いかに覚えたか?理解出来たか? 
が試験で試され、後は提出物の如何で点数は如実に表されるでしょう。 
 
それは理系に進みたい。文系に進みたい。 
まだどちらとも解らない人間にとって底辺的な常識部分が多いから。 
しかし音楽の試験に関して言えば、音楽大学を出た人でも前日に 
本を借りて丸暗記しなければいけないような、その本だから載っている問題が 
試験の為の問題としか受け取れないようなのも有ります。 
又 A先生の問題は毎年同じとかB先生の問題は市販されている問題を使われているとか… 
1部の先生のされている事にしても、それを受けている生徒はいるのです。 
音楽の試験には、リコーダー・歌の試験等も有ります。 
リコーダーに関して言えば、得手不得手は有っても 
その子の努力でまかなえる事だと思います。 
しかし、歌はどうでしょう。 
メロディーは授業で教えても声がいかにすれば出せるのか 
授業中に指導はなされているのでしょうか?声変わりの子もいます。 
単に恥ずかしくて出せない子もいます。 
がんばっても この音域の歌は歌えないという子もいます。 
試験にあたって、そういう事を解られて先生は試験をされているのでしょうか? 
 
学校によっては300人前後の生徒を担当されているかもしれません。 
だからと言って、それは無理という事は言ってはいけない事です。 
なぜなら、生徒はそれで点数を付けられ、 
中には「私は音楽苦手」と思い込んでしまう子もいるからです。  
 
学校の音楽に何故点数がいるのでしょう。 
中学の音楽の先生にその生徒の高校受験に影響力のある点数を 
一任してしまっても良いのでしょうか。 
 
音楽は生活を豊かにする物です。個人的にピアノ・歌・ヴァイオリン・フルート等 
習っていて音楽の道に進みたいと思っている人、 
ブラスバンド部に入って楽器を本格的に勉強したくなる人、 
そういう人たちもいるけれど、5教科のように将来専門に勉強する道がある 
と言うだけでなく、これからもずーっと先人生を豊かにする物としてあるのです。 
音楽など副教科を重視すると言う意味が取りちがえられているとは思いませんか? 

教師は聖職

これは教わる側からの意識ではなく、 
教師側が必ず持たなければならない意識だと思っています。 

親が自分の子供の事でも考え悩んでも正解を見つけられない問題は沢山有ります。 
でも、そういう困難なことがあることを解った上で教師という職業を選んでいるはずです。 
上手くいかないことがあっても諦めず教育方法を模索していってもらいたいと思います。 
 
多くの先生方はこういう意識を持って生徒に接し、 
一生懸命に取り組んで下さっていると思います。 
でも持っていただく先生によって子供がガラッと変わってしまうのも事実。 
 
私は年の始めに必ず書いて、気持ちを・意識をしっかり持とうと 
自分に言い聞かす言葉が有ります。 
 
 ・ 私に何人生徒がいようとも生徒から見れば先生は私1人なのだ。 
 ・ 生徒の人生の何時間かに関わっている・関われている重要性を忘れてはならない。 
 ・ 生徒が私の所から巣立った後も良い影響力のある人間でなくてはならない。 
 
ピアノのレッスンをしていると生徒は色々な事を話し掛けてくれます。 
時には 「ハイ!レッスン中!」と言わなければならない事も有ります。  
親に話す前になんとなく相談というのも有りますし、 
1週間に1度しか会わないからかえって生徒の変化が解るということもあるのでしょう。 

 生徒の感情の変化は相談からだけでなく、「音色」「弾き方」「態度」でも現れます。 
 そんな時、私はどういう風に接するのがこの子にとってより良いのかを考えます。 
2~3週間良くない状況が続いていると思う時は御家庭にお電話をして 
何とはなしに「どうですか?」と聞くようにしています。 
 大概それから1~2週間すると学校から友達関係の事で連絡があったり・・・ 
 
そういった変化に気付くことが教師や周りにいる大人の役割の一つだと思います。 
生徒のS.O.S.をより早くキャッチする立場にいる事に身の引き締まる思いがします。  
 
 
 

ゆとり教育

本当のゆとり教育とは子供が成長過程において 
時間にゆとりがあるのではなく、 
将来、頭脳に・心に人間としてゆとりを持てる 
ようになることではないでしょうか。 
 
確かに遺伝的なものがあるかもしれないけれど、 
それ以上に子供は取り巻く大人や環境によってどうにでも育っていくと思います。 
例えば、整理整頓の出来ない大人に育てられれば、 
片付いていない状況が普通で「片付ける」という 
行動を改めて学ばなければならない。 
整理整頓が当たり前で育った子供は、 
片付いている状態が普通だから改めて片付ける事を 
学ぶ必要も行動も最小限ですむことになります。 
私は片付けなさいと言っているし、 
整理整頓もするけれど子供はしないという方がいらっしゃるかもしれません。 
それは残念ながら整理整頓は当たり前であることを 
示していても子供に自身ですべきことという認識を持たせる事を怠り、 
自分で片付けたほうが手っ取り早いから「片付けなさい!」 
と叱りながらも手を出して子供より先に片付けているのではないでしょうか? 
どうすれば片付くのか?どの状態を片付いたと言うのか? 
その手間を省いているのではないでしょうか。 
現状片付いていれば良いのでなく、 
将来子供にとってどうあれば良いかを考えて育てるのが教育でしょう。 
 
幼年期から塾に通う方たちがいます。頭脳に早く色々な知識を詰め込む。 
知識を詰め込む自体は脳を刺激しているから良いとは思うのですが、 
暗記させることや反射神経的に出来ることを訓練するよりも、 
物事の考え方・取り組み方・ 何故そうなるのか 
もう一つ掘り下げて考えることの方が大事なのではないでしょうか? 
そういった方向で教育することで結果的に 
ゆとりを持てる人間に育てることができるのだと思います。 
 
例えばピアノの練習をする場合毎日15分すれば 
今週はとてもがんばって練習した、できるようになったと満足する生徒もいれば、 
今週は毎日30分しか練習できなかったと思う生徒もいます。 
練習内容も単にピアノの前に座り楽譜を見ているようで 
なんとなく弾いている生徒もいれば、 
レッスンで受けた注意を直そうとする生徒、 
直すためにはどんな練習をしたら良いかを考える生徒と色々です。 
でも、それぞれはそれぞれに練習をしたつもりでいます。 
練習時間は必要十分であれば問題ありません。 
 
なんとなく練習をしている生徒は、 
どれだけ練習してきて注意が直ってこないのですからなかなか曲が進みません。 
そして「やっても 上手にならない」と思うのです。 
当然、練習の仕方を指導したりしますが、 
漫然と弾いてくる生徒は中々上っ面の練習から抜けだせません。 
気長に生徒が目覚めてくれるようその時その時に応じて 
生徒に話をしていくのみです。 
真に気づいた時 グーッと伸びます。 
勉強もその時その時漫然と勉強時間を過ごさせるのでなく、 
取り組み方を指導する。 
自己満足のために練習をしていることを理解しているなら・・まあ良いでしょう。 
しかし、上達するためとなるとそうではいけません。 
漫然と練習していても効果は薄いのです。 
 
このことが分かっている教育者が少ないように思います。 
口が達者な子供もちょっと知識の多い子供も大人の目から見れば真っ白です。 
その子供が教育者・身近な大人の持っている 
間違った常識・練習方法に影響されると恐ろしいですね。 
自分の子供は自分たちで責任を持って生きさせていくだけでなく 
真に育てていくのを考えるべきだと思います。 
 
つまり、学校でのゆとり教育が言われますが、 
それぞれの家庭の方針が重要になってくるのだと思います。 
何を大切とするかがまずそれぞれの家庭で異なります。 
極端な話、学校の成績が良ければ最上の子供と考える方もおられます。 
私はそうと思いませんが・・・ 
 
勉強は自分を創るための食事と同じだと思います。 
口から入る食べ物は体を作り、学ぶことにより人間自体を創る。 
小学校の高学年や中学生になると 
「こんな勉強(科目) 私には必要ないのに」と言う子供がいます。 
そんな時、私はこういう風に答えます。 
「何をしたくなるか将来のことは未知でしょう。 
専門的なことでなく一般常識的なことが多いし、 
数学なんかも構成力を養う練習よ。 
自分の親・友人だけが今の 全てだろうけれど、 
色々な考えを持った人が多くいて、 
今のあなたなら「うそー」の言葉しか出てこないことも沢山あるはずよ。 
今は社会に出て社会で生活して いけるように準備をしてるんだよ」 
と言います。知識の引き出しを多く持ちなさいと私はよく言います。 
 
選択しなければならないとき A君は10センチの立方体の容量の知識しかなく、 
B君は100センチの立方体の容量の知識を持っている場合、 
A君にはB君の 選択が理解できないか、その選択に感銘を受けるでしょう。 
A君が1時間かかることをBの人は5分で出来るかもしれません。 
しかも1時間かけたA君よりも完 成度が高いこともあるかもしれません。 
また、例えば災害が起きた時に「可哀想」と思うだけの子もいれば、 
「もし自分の住んでいるところで起こったらどういう行動をすべきだろう」 
と考える子もいます。 
こういったことは日頃の習慣・経験に起因します。 
 
だから子供が知識・経験を増やすのは偉いのではなく、 
自分の人生を豊かに出来る可能性を増やせる状況を与えているんだよと教えるべきです。 
中々「そうかあ。感謝感謝。」と納得するお子さんはいらっしゃいませんが^^; 
 
子供のプラス面もマイナス面も育てている大人が本当は一番見えているはずです。 
子供に対し「もう!」と思うことが例えばあるなら、 
「もう!」と大人が思うことをどうすれば子供は治せるのだろうか 
を考えられるのも、一番身近にいる大人。 
そして、その子供に一番近いのが家庭。。その次に教師です。 
私は2番目に近い位置にいる責任ある大人として考えていかなければなりません。 
ゆとりのある多くの人たちが育ってこそ豊かな日本の将来があるのですから。 
 
 
 

私の子育て3

お母さまで 
「言ってるんですけどしないんです。」 
のようなことを言われる方がいます。 
私は言うことは言っている、親としてとるべき態度はとっている。 
と無意識に自分を正当化されている。 
 
子育ては自分に与えられた課題だと思います。 
自分の子が「しなさい!」「したの?」でするか?しないか? 
は日々の生活の早い段階で分かると思います。 
なら、親の義務としての声がけをするのはやめたほうが良いのでは? 
と思います。 
言って言うことをきかない→ 
イライラしてきつい口調で話す→ 
子供が泣く 
 
体は疲れるし、とことん言わないと収拾がつかなくなり、叱る時間が延びる。 
子供が本当に反省するのはマレ?ではないでしょうか。 
お母さんが怒っている間何もできない。 
泣いたら余計に子供も疲れる。 
 
何もいいことがありません。 
お母さんが自分の子に何かをさせたい場合、 
どうすれば自分の子供は行動するかを考える。 
 
お母さんの枠にはめ過ぎようとしていないか? 
子どもにとって良いと思って動いているか? 
親として「子供にこんなにしています」の自己満足が先に立っていないか? 
 

枠にはめ過ぎると、いざ自立をしてほしい時に 
自分から行動を起こすことをしなくなります。 
お母さんがリラックスできて、穏やかな気分でいられることが 
子どもにとってベストだと思います。 
 
しなければならない→ 
負担を感じるようになる→ 
誰のためにしてると思っているの!と罵声が飛ぶ 
 
互いにどうしたい、どうしよう、お母さんが主導権をとるのでなく、 
協力できる範囲を示してみる。 
怒ってる時間と体力がとっても無駄なものじゃないかなと思います。 
 
生徒達が「先生聞いて!うちのお母さんすぐ怒るよ」と言ったとき 
「お母さんと一緒に生活してて、何したらお母さん怒るか分かるやん。 
あなたが大切や思って注意してること聞かへんかったら 
「モー!」って思うんちゃうん? 
今週はお母さん怒らせへん!に挑戦してみ」 
 
私に訴えてきた生徒の誰からも「実行できた」 
の報告はまだもらえてないけれど・・・