ブログ

サイト管理人のブログです。

このエントリーをはてなブックマークに追加

ブログ一覧

レベル

私は生徒たちにレベルを上げようと声掛けをします。 
人にはそれぞれ満足するラインがあります。 
がんばらなくても普段初見練習をしているのですから練習時間が 
少なくてもほどほどには弾けます。 
でも、弾くと演奏は違います。 
どの程度練習しているかは聞けば解ります。 
演奏は練習しなければ出来ません。かつ、考えて練習しなければ。 
ただピアノの前に座って時間が過ぎるのを待つような練習では意味がありません。 
 

生徒たちが上達するには上手になりたいという 
内面の気持ちを持たせ高めること、 
課題を高く持ってもついてこられる意識を持つこと。 
出来ていない間は「それではまだ曲になっていない。」の意味すら理解できないのです。 
「弾けてるのに」の目をもっと弾けるようになりたいの輝く目に変える。変わる。 
と生徒もレッスンがもっと面白くなる。 
 
小学高学年や中学生になると「学校の勉強したくない」と愚痴る生徒が出てきます。 
私は「色々な知識がないと自分が本当にしたいことが見えてこないんだよ。 
又、何かしたいと思ったとき、知っていて当たり前のことを知らなかったら 
分かるはずのことが時間をかけても理解できなくなるかもしれない。 
物事をするとき の選択権は相手にあるより自分にあるほうがいいじゃない。 
自分のレベルを上げるのは自分だよ。」と話をします。 
 
私には息子が3人います。 
これから先、幸せな人生を歩んでほしいと願っています。 
私は幸せと言うものは 自分だけで感じれるものではないと思っています。  
自分だけが幸せでいると言うことはありえないと考えます。 
自分の周りが幸せで自分も幸せ、だと考えます。 
だから 日本が幸せであってほしいと願っています。 
生徒たちも自分で幸せを手にしていくという自覚・意識を 
自分のレベルを上げるというピアノのレッスンが少しでもプラスになればと思っています。 
 
 
 

就学前

色々と環境・設備は変わりましたが、今も昔も子育ては大変だと思います。 
でも親にとって何よりも大切な事であり、何事にも変えることのできないもの。 
だからこそどんなに大変でも苦しい時でも育てていけるのだと思います。 
 

生命が母親の体内に宿り、生きていくすべての物を母親から与えられ 
母親の体内を通し て音を聞き、感じ育ちます。 
赤ちゃんとして体外に現れた時、うすーく うすーく 色付きかけているかも知れないけれど、 
まだ限りなく白でそこに少しずつ色を付けていくのは、母親であり、父親であり、 
場合 によってはおじいちゃん・おばあちゃん・お兄ちゃん・お姉ちゃんだと思います。 
 
子供を育てるのは、その子をどういう環境で育てるか?どういう方針で育てるか? 
だと思います。 
学校等での教育はその中のホンの1部でしかないと思います。 
知識は知識であり、心ではありません。 
こどもが誕生した時、ほとんどの親が「素直な」「優しい」「人を思いやれる」子に 
なってほしいと願ったでしょう。 
 
「優しい頭の良い子に育てたい」と思うなら、 
親が関わってやれる範囲のことだけに押さえるべきです。 
「関わってやれる」と言うのは何も送り迎えの出来ると言う意味ではありません。 
一緒に自分がするつもりで考えてみられたら何かをさせるにしても 
1つで十分だと言うことがお解り になると思います。 
 
子供の勉強が出来るか?あまり芳しくないか?は 
「集中力」「思考力」「理解力」「要約力 」「計算力」だと思います。 
 
色々なことをさせ、時間拘束の中連れ回られている子供に集中力を望むのは難しい話です。 
集中力をつけさせたいのなら、何か1つの事を一生懸命にするように導くべきでしょう。 
 
絵とは思えない絵に没頭している時、人形遊びに夢中になっている時、砂で山を作ったり 
トンネルを作ったりしている時・・等、親が子供にしてやれるのは没頭できる十分な時間を 
とってやる事だと思います。 
 
他にも、自分で考えるのはパズルのような問題だけで、実際の自分の行動は親が次々指図して 
自分が何をしたくてどう行動するのかを決めさせてもらえない子に思考力を望むのはかわいそうです。 
 
子供はこの世の中の扉を開け、順々にその子に応じた慣れ方をして、 
その「慣れる」過程 でその子なりの思考力は育っていきます。 
それに対して、恐らく20年以上もたくさん生きて、何らかの経験をしてしまっている大人 
が手っ取り早く段取りや答えを与えてしまうのはどんな物なのでしょうか? 
その子供の「思考力」はいつ育むのでしょうか? 
 
とても小さい間は すごく賢くても気が付いた時には・・・・ 
 
せわしなく時間に追われ 何事も大人の考えた出来上がった答えをあたかも知識であるが如く 
与えられている子供には 理解力や要約力を望むのはかわいそうです。 
物事があって経過がなくて答えが有る。 
いかにすぐに答えられるかで 一喜一憂する方がいます。それってそんなに凄い事ですか? 
単に要領を身に付けてしまっただけではないのでしょうか。 
 
1~100までを3歳や4歳で数えられて、凄いと喜ばれる大人がいます。 
小学校に入れ ば大概可能になる事です。 
2~3年早く出来ても人生の長さの中で はたいしたことではないと思います。 
 
確かに最低限の知識が無いと発想は生まれません。 
しかし、子供の思考力とは発想以前の もっと根冠の部分ではないでしょうか? 
そんな事で時間を使うくらいなら、積み木を重ねたりして遊ぶことで 
数自体の持っている違いを自然と感じれるようになる方がずっと意義の有る事だと思います。 
 
ボケッと空の雲の動きを見ていたり、土を見てるのか?花を見てるのか?アリを見ているのか? 
解らないけれど、傍から見たらぼーとしている時間に 
色んな事が身に付いていっているかもしれません。 
 
物事を学ばせたいと思ったら、本人が興味を持つように環境を持っていく事。 
自分で感じていかなければ身に付いていってはくれません。 
 
よく上の子は何をするにもゆっくりで要領が悪く、 
下の子はさっさとしてしまう・出来てしまうというのが有ります。 
上の子が接するのは親です。下の子は親と上の子の接するのを見て育ち、 
また上の子が下の 子の生活環境を作ります。 
どういう事かと言うと、大概の御家庭の場合、上の子がピアノを習う時、自分で練習する時 
しかピアノの音色は聞こえません。 
 
つまり、未開の地を開拓していくが如くです。 
でも下の子がピアノを始める時 既にピアノの音色に幾分馴染んでいます。 
更に大体の場合、自分の練習曲は上の子がした曲だったりしてなんとなく親しみよくなっています。 
だから上の子よりすっと出来ても凄いことでは ないのです。これが環境です。 
頭からさせなきゃと思うより そういう環境作りが大切だと思います。 
 
色々な知識が例え身に付いたとしても、 
それによって本人の喜びがなければ何の意味が有 るのでしょう? 
 
「いつもお母さんは怒っていた」・「お母さんにやらされていた」では、 
させている親もしている子も幸せではないと思います。 
子供は言われたことをしているだけ・・・ 
そんなことであなたが望む能力は伸びてくれないと思います。 
大人は子供のずっと先の将来の人間性を大切に考えなくてはいけないのではないでしょうか 
 
 
 

小学生

近頃、小学校に入るや否や学習塾に通う人が増えたように思います。 
人間を形成するのは 体・心・知恵です。 
体作りにしても年齢に応じた運動をしなければ、 
ほとんどの人が支障をきたしてしまいます。 
体づくりに関しては結果が目に見える状態で現れてきますので、 
気が付きやり方を見直せます。  
しかし・・・心と知恵は目に見えません。 
 
知恵とはいったい何なんでしょう?学校・塾で学ぶ事柄は「知識」です。 
世の中に出た時、それはその人の教養となります。 
当然、教養は必要です。でも、それと同時に「知恵」も必要なのです。 
生活の中で知恵をつけさせなくて、知識だけを詰め込んで・・・ 
果たしてそれをその子は使いこなせるのでしょうか? 
 
学校で習う事は学校で習ってしまえば良いのです。 
 
必ず100点に近い点でなくても、間違ったら間違ったままにしないで覚え直せば良い。 
テストの前に覚えるか?テストの後で確認できるか? 
の違いで覚えてしまえば大差はないと思います。  
それより解らなければ帰って塾の先生なり、家庭教師が教えてくれる・・・ 
と言う気持ちを子供が持ってしまったら、 
その子はそれ自体自分の時間を大切に使えない子になってしまっていると思いませんか? 
 
これは何度も自分で努力して覚えると言うのとは 又 違うと思います。 
頼る場所を増やしているに過ぎないのです。 
 
「うちの子供は出来ないから」とか「頭がよくない」とか決めて話す方がいます。 
その方はまだ単に自分の子供の秀でている所に 
気がついておられないだけではないでしょうか? 
 
テストで100点取ったって、クラスで1番だったって、 
幼子の屁理屈に聞こえるかも知れないけれど日本中では何番だ!  
100点は確かにその時点で理解出来ているのでしょうが、 
1カ月後にできなければ意味がないのです。 
 
何故、何でもかんでも解っていないといけないと思うのでしょう。 
極端な話、何か1つその子が生き生きと出来る事が有れば、 
それを周りの大人が大切にしてやることで、 
その子の未来はワクワクしてくるのではないでしょうか。 
 
何か1つと言うのは 
単純に好きな事と言うだけに終わらせない自分から考える何かのことです。 
物事に興味を持った時、始めは本質的な物。 
次第に側面的な物、つまり、それに関連する事に興味を持ち出す。 
そして、それをある程度気長に大人は見守ってやる姿勢が大切だと思います。 
 
選択権を持てる人間になってほしいと思います。 
人それぞれに幸せと感じれる事柄は違います。 
親の人生は親自身の物。子供の人生も又、子供自身の物。  
口出しする事はとても楽だと思います。結論を安易に教えているのだから。 
ただ 親の考え=最上では有り得ないと思います。 
親は自分が生きてきた範囲の中で善し悪しを考えてしまっているから。 
 
決して「口を出さない」=「放任」ではでは有りません。 
 
親は「私はいつもおまえを見守っている」と言う意識。 
子は「親に見守られている」と言う意識は絶対的に必要だと思います。 
 
子供時代は社会に出す訓練期間であり、予備練習の期間です。 
その子の人生にずっと関わるのはこの時期に養われた内面的な物だと思います。  
 
 
 

音楽は素敵

長く携われば携わるほどに、ピアノの教育としての価値の大きさを感じます。 
例えば楽譜を見る。楽譜には拍子があり、音符が書かれ、 
リズムがついて速度や表現の表示がしてあります。 
しかし、同じ楽譜からでも人それぞれに読み取り方は違います。 
楽譜をどういう風に読み取り、自分の弾いている音を 
どれだけ注意して聞くかで注意力は育ちます。 
自分の弾いている曲がどういう曲なのか・・ 
「楽しい」「悲しい」「軽やか」「静か」等を考えて、 
そう聞こえる音を出したいと思った時。。 
そういった前後関 係も考えての音作りは「思考力」「集中力」を養い、 
曲を1つの物語と考えその中に情景描写・感情描写を加えれば、 
感受性・国語力を養います。 
バロック系でのメロディーの追いかけっこは、左脳・右脳を使っての作業になり、 
系統立てて考える力は、数学的な面を伸ばします。 
というように生徒さんによっての個々の成長も取り組む姿勢も異なりますが、 
それぞれがプラスの方向で進んでくれるよう取り組んでいます。 
 
ピアノレッスン自体ですがレッスンでは、読譜・テンポ感・拍子感・音感・リズム、 
次にフレーズ・速度・時代的なもの・演奏法等の指導をします。 
それに並行してキータッチ・音の出し方・指の下ろし方・脱力・体の使い方等を指導します。 
 
指導する側からは ピアノのレッスンは前記したようなことを目的としていますので、 
曲を 楽譜を見て弾いた時、よりよい音色・曲にあった音で弾けるようになって欲しい。 
どう聞こえる曲に仕上げたいかを考えて弾いてもらいたいのです。 
だから、その変化を感じられない電子楽器よりアップライト。 
よりこまやかなキータッチ表現を感じるグランドピアノとなります。 
触れば・叩けば音楽になるとは決して思って欲しくないし、 
弾いた=音楽 とも思って欲しくない。 
 
生徒達に 言うのですが ピアノは指先だけで弾くのでなくて 
頭からピピピって指令が行って腕を通って手を通って、 
指先に到着するから途中で折れたり曲 がったりしたら 到着しないし、 
あなたも指も体全部が音楽を感じられるようにならないと、単に音を弾くことになるよ。 
あなたが弾いている曲を聞きたいの に 指だけが音を弾くのでは音楽にならないよ。 
小さい方達にも 徐々に思いを伝えていきます。(生徒への手紙7月より) 
 
音楽はその人の人間としての豊かさの1部であり、 
その人を形成する上での重要な役割をしていると思っています。 
だから 先月のお手紙で書きましたように 楽譜を弾かせればいいとは思っていません。 
何か 曲を弾くには それなりの努力は必要です。 
子供さんによって体格的なものが成長する時期が異なるのと 
同様に物に対する見方・注意力・集中力・持続力・構成力・感性等も個人差があります。 
伸びる時期・伸ばしやすい時期も異なります。 
でも常に 前向きに 身についていってもらえる姿勢で対応しなければと思っています。 
練習も 自分の生活リズムの管理ですから少しでも時間を作る努力を 
できるよう一緒に考えますし、ご父兄にも時間の割り振りに子供さんと 
お話していただくようにします。 
ピアノは 家庭での練習量が上達の条件です。 
 
 
 

子供に習得させたい事

子供が独り立ちした時にどうあって欲しいか? 
親子の人間関係・世の中に対する時の子供の姿勢 
物事を広く、浅く色んな事を知ってもらいたいと思われる方も多いかもしれません。 
確かに、浅い部分は比較的すぐに学ぶことができますから、 
広く浅くいろんなことを学ぶのは効率的にも思うでしょう。 
でも、お稽古事を広く浅くでは単なる「知識を少しかじっただけ」にしかなりません。 
お稽古事は、深く学ぶ事で精神・達成する方法も学ぶのだと思います。 
 
努力というのはできなかったことに挑戦し、身につける成長過程です。 
だから、どんなに能力のある人でも初めに3つも4つもに挑んでみるより、 
まず1つの事を深く長く挑み続けることで自分の内なる力が貯えられ、 
又また他の一見関連性の無いものに挑む際にも役に立つものだと思います。 
 
音楽も技術だけでは自分も楽しめないし、人の心にも触れる演奏はできません。 
 
では、どうすれば・・・ 
 
私はその過程が大切だと思います。 
初めは誰しも自己満足の演奏、そして他の人の演奏を聴いたり、 
レッスンによって、感受性が高まっていき、自分の演奏に取り入れる。 
そして、自分の演奏に取り入れることができてから 
同じ演奏を聴いていても感じ方が変わり、また・・・と繰り返し、 
感受性が高まっていきます。 
色々な物事に関しての感性も高まっていきます。 
でも、少し弾けるようになったかな?で止めてしまうと 
肝心の人間的成長が養えません。 
とてももったいない事です。 
 
知識を多くするのも大切かもしれないけれど、親と子が大人対大人として 
向き合った時どうあって欲しいのかを 深く考えていただきたい。